須藤美保
スランプ越え 見えた「立ち位置」
──────画家たちの心象風景を歩く⑧
フジギャラリー新宿では、インテリアにマッチしたアート作品をご紹介しています。完璧左脳人間・原田が作家のみなさんに伺うインタビューシリーズ。今回は、インテリアに合う作品をということで、一風変わったボタニカルアートをご提供いただいている須藤美保さんです。
須藤美保さん。2018年11月、フジギャラリー 新宿の個展で
人生初の油画で一般の部入賞
——— 須藤さんにはいろいろアート業界のことを教えていただいていますが、じっくりお話を伺うのは初めてです。ご出身は岐阜県。
はい。大垣市というところで育ちました。高校は、県立加納高校美術科を1975年に卒業しました。
——— そんな時代でも美術科があったんですね。
私はちょうど10期生です。当時は京都に1校、愛知に1校、東京都に3校、というような感じで設立されていました。工芸やデザインなどは、工業高校の科になっていることもあったようです。
——— 絵を始めたのはいつですか?
幼稚園の頃から、近所の絵画教室に通い始めました。それ以外にも習い事はたくさんしました。ピアノ、茶道、華道、ガールスカウト、ピアノ、そろばん・・・。お転婆だったので、その絵画教室は途中で飽きてしまったのですが、中学校で改めて別の絵画教室で油絵を習い始めました。
——— 油絵は、それまでの水彩などと違って、「大人の絵」という感じでしたか?
全然抵抗はなかったですね。「なるほど、こうやって描くのね」という感じで。ナイフを使って描くのが面白いと思った程度です。それで、入塾したタイミングがその教室の生徒は大垣市の展覧会に出す月だったので、生まれて初めて描いた60号(130 x 90cm程度)の油絵が、一般(大人)の部で賞をとって、自分も周囲も驚きました。
———高校美術科は、どんなカリキュラムですか?
週に12時間、美術の時間がありました。工業高校などと同じだと思います。月曜日はデッサン、火曜日は油画、水曜日は美術史、という感じで、1年生のころは、油画・デザイン・彫刻を全部やります。今は日本画もあるでしょうし、当時もたまたま学校に教えられる先生がいなかっただけかもしれませんが、当時は日本画はありませんでした。2年生になると、その3つのうちの2つを選び、3年生になると1つに絞る、という形です。
左:《華詞 ~もみじ~》333×242mm ミクストメディア
右:《華詞 ~菊~》333×242mm ミクストメディア
東京芸大新卒の先生からインスパイア
——— そこで美大・芸大受験に。
美術科のある高校ですから美術の先生は10人ぐらいいたのですが、その中に、東京芸大を出たばかりの版画の先生がいました。男性で、イケメンというわけではなかったですが、岐阜にいる高校生にとって、東京の芸大から来たばかりの先生は新鮮で。「東京芸大か」と身近に感じました。また、版画はいろいろ専門の道具が必要なのですが、それが一式揃っていたので、準備室に自分の作品を制作している先生の作業工程を見にいって、色々おしゃべりさせてもらいました。芸大受験では二浪しましたが、結果多摩美大の油画に進みました。
——— 多摩美での制作はどうでしたか?
今でもそうですが当時としては先進的で、「現代美術」の紹介も多く、幅広く学ぶことができたと思います。三年次から国内有数の公募団体「独立美術協会」会員の今井信吾先生のクラスを取りました。当時の多摩美油画科は、1〜2年生は基礎課程で、五十音順にクラスが分かれるような感じで指導を受けます。3年生からそれぞれ先生を選んでいく。6クラスあって、1つは版画、1つは陶芸、あとは油画で、抽象・半抽象・半具象・具象と分かれていて、具象である今井先生のクラスを選びました。今井先生のクラスは、課題も多くて、他のクラスの倍ぐらい提出しなくてはいけなくて、厳しいと評判でした。講評会なんかでは「この辺が甘い」「これは何を言いたい絵なのかな」と構図や色使いも含めて追及されるのです。でも、たくさん描けないと、そもそも絵描きになんかなれない。だから、課題をこなせるのが当たり前だと思っていました。
———大学院に進まれたのは?
もう、単純に、学校にいて、制作する環境を維持したかった、それだけです。学部の4年生の時には、今井先生の所属する独立美術協会展に出品しはじめました。もちろん学費などは稼がなくてはいけないので、アルバイトもたくさんしました。何をやっても優秀で(笑)インテリアデザイン事務所で図面を引いたこともあります。結構楽しいんですよね。それで院を卒業したのが26歳。卒業した年に、博物館で展示されているような、造形模型制作を仕事にしている夫と結婚しました。夫の仕事を手伝ってもいいかなと思っていたぐらいです。
建築パースで収入確保
——— 結婚後は制作に打ち込めましたか?
結婚前は、学業に加えて公募展に出す作品づくりや、アルバイトで本当に忙しかったので、半年ぐらいは嬉しくてぼーっとしていました。やっぱり自分の稼ぎで絵を描きたくて、まもなくイラスト制作などの仕事を始めたのです。当時はCADがなくて建築パースが手描きだったのと、景気もよくて、軽井沢の別荘5棟まとめて広告用に描いて、といった仕事がありました。でも、独立展では年に3枚、女流画家協会展の方では年に2枚は大型の作品を描かなくてはいけないので、やはり多忙でしたね。忙しいのが好きなんです。
左:≪モクレン≫ 227×158mm ミクストメディア
右:≪アマリリス≫ 455×380mm ミクストメディア
画壇で受賞 画家としての自覚
——— 今は絵画教室の指導をなさっていますね
カルチャーセンターで絵画教室の先生も引き受けられる年齢になってきて、建築パースから徐々に移行していきました。稼げる額では、パースの方が良かったのですが、締め切りがあるし、絵画教室の先生は確実に収入があるので。これもやってみたら結構楽しい。
——— お子さんもいらっしゃるとのことですが、子育てと画業の兼ね合いはどうでしたか?
子供を産んだことが直接影響したわけではないのですが、90年代は、自分にとっては苦悩の時代でした。行き詰まったというか、新しいアイデアが浮かばないというか。
画風って、変えるのは怖いんですね。元々は、過去と現在と未来が、街中のショーウィンドーを通して交錯する「錯綜する時」というテーマで描いていました。フジギャラリー では、インテリアに合わせやすい花の絵などが多いのですが、私は着物を着た少女の作品をずっと描いています。着物には花がよく描かれていて、それが過去を暗示するとすれば、私が描く現存する花との「時」のギャップが混ざり合った絵になります。97年に独立展で初受賞して、この時はファッショナブルな洋服を着た女性だったのです。その後、そのスタイルで何度か受賞したんですけど、グランプリが取れないことに焦りを感じて、着物を着た少女の絵に変えた2010年に「独立賞」を受賞して、「ああ、変えていいんだ、よかったんだ」と思いました。独立賞というのは独立美術協会展でのグランプリで、どうしても欲しい賞でしたし、翌年に会員に推挙されて審査する側になったことで画家としての立ち位置を自覚することができました。
左:《デンドロビウム》240×170mm ボタニカルアート(透明水彩)
右:《ばら》240×170mm ボタニカルアート(透明水彩)
具象、長く描くほど上達
——— 今後描きたいモチーフなどはありますか?
私の描く少女は、実存する少女というより、精霊のような存在なんです。子どもの頃、郷里の野山を歩いていると、ふと存在を感じた様な。もちろん、モデルは使っています。人間の体の形はモデルを使わないと。でも、少女の顔にはオリジナリティを出したいと思っていて、ずっと試行錯誤しています。小さなスケッチブックをいつも持って、思いついたら小さくですが、描きとめています。
——— 絵は、長く描いた方が上達するのでしょうか
上達はし続けますね。抽象は感覚で、変化していきますが、具象は特にたくさん描けば上達します。
——— 後輩や若手に感じることはありますか?
最近の方はみんな優秀です。私があのぐらいの年のころは、そんなに上手じゃなかったな、と思うことも多々あります。それだけ情報が多いということでしょう。それに、昔のような「師匠のやることを盗む」というのではなく、今の学生は手取り足取り、教えられている。負けないようにがんばらなくっちゃ、と思っています。
インタビュー後記 ————————————
須藤さんとは、個展でお会いしたことから始まり、その後2人展の企画、さらに独立美術協会のパーティでご一緒させていただき、多くのことを教えていただいています。独立美術協会会員として、ほかの誰よりもたくさん新人の顔を覚え、仕切り、会場内を歩き回っているお姿に、限りないパワーを感じました。今回のインタビューも初のZoomとのことでしたが「これから使えるわね」。「何やっても優秀で(笑)」とおっしゃるのも納得でした。
(原田愛)