島田由子
線と構図 金沢が育んだ和モダンな世界
――画家たちの心象風景を歩く②
フジギャラリー新宿では、インテリアにマッチしたアート作品をご紹介しています。抽象画も多く扱っていますが、お花や動物の絵、風景画ならば何となくわかっても、抽象画は、ただの線だったり、丸だったり、絵具を散らかしただけのように見えたりして、「分かるようで分からない」というのが、正直な感想ではないかと思います。
そこで、完璧な左脳人間・原田が、アートを生み出す人々にインタビューするシリーズを開始します。
今回は、襖絵の世界からアートに飛び込んだ、島田由子さんにお話を伺いました。
新作をお持ちいただいた島田由子さん。
≪無題≫ 島田由子 和紙、墨、金箔 980x686mm
箔と墨を配した作品。墨を吸う壁紙に、企業秘密のスジが入っている。
―――島田さんの作品は、和モダンな雰囲気が、とても人気が出そうです。
ありがとうございます。
―――簡単にプロフィールを。
生まれたのは兵庫県宝塚市ですが、父親が製薬会社の営業マンで、転勤にくっついてあちこちを転々としていました。東京にもいました。社宅で、千葉県松戸市と、確か東京都世田谷区にも住んでいた覚えがあります。その中で、小学校5、6年生で金沢市に転勤で移り住みました。
■太陽の色が違って見えた子供時代
―――金沢美術工芸大学の日本画科を1983年にご卒業になったんですね。金沢といえば、「加賀百万石」ですが、子ども心には、どんな印象でしたか?
太平洋側の東京から、初めて日本海側に住むことになって、最近まで「金沢の学校は、教室の電気をつけない」と思い込んでいました。当時の友人に聞くと「そんなわけがない」と言われて。それぐらい、太陽の色、光の量が違いました。
金沢の、気質というか、人、は好きでしたね。もちろん、小学校の時から、絵を描けば褒められて、何かしら賞をいただいていました。なんとなく美大に行こうかな、と思い始めたのは、進路を考え始める中学生ごろだったと思います。
―――でも、お父様は転勤族ですから、それからも引越しなさったのでは?
そうなんです。ちょうど、高校受験の後に、父の群馬県高崎市への転勤が決まりました。金沢で行く高校が決まったばかりで、しかも高崎での高校の受け入れ先が決まらず、「少し様子を見よう」という感じで、高校の3年間は下宿屋さんに下宿して、金沢の高校に通いました。それから大学卒業するまで金沢でした。
―――下宿屋さんというのは、話には聞きますが、イメージができません。どんな環境でしたか?
本当に、普通のおうちです。たまたま私の高校の近所に金沢大学附属高校という県一番の進学校があったので、その高校に石川県全域から越境して通う学生のための下宿屋さんに、私もお世話になりました。お子さんが自立された後の6畳ほどの部屋をお借りしてご飯を一緒に食べさせてもらうという、アットホームな下宿屋さんです。
―――何人ぐらいの高校生と一緒なんですか?
私のほかに、常にもうひとり、という感じでしたね。附属高校の3年生が、受験で通学が大変になって下宿する、というのがパターンでした。だから、1、2年生のときは、全然仲良くならない。3年生になってようやく同級生と住むことになって、ちょっと遊んだ、という感じで彼女とは今も交流が続いてます。
■加賀友禅の工房に通った高校時代
―――不自由はありませんでしたか?
テレビがね。家主のいる居間にしかテレビがなくて、ご飯の時だけ一緒に見られるけれど、当然私が見たい番組は見られない。なのでラジオをよく聞いていて、今もラジオ好きです。そんなこともあり、週末は金沢市内にある遠縁の親戚の家に毎週遊びに行ってました。その親戚というのが、加賀友禅の工房だったんです。
―――もう加賀友禅が出てくるんですね(笑)。
金沢の浅野川添いの、すばらしいしつらえの家で、まさしく「ザ・金沢」。毎日工房に職人さんが通って来るし、お店のお客さんもいるし、親しい隣近所さんの出入りもあり、ウェルカムな感じがとてもあった。毎週土曜日に行って、泊まって、たっぷりテレビをみて、日曜日の夜に下宿に戻っていました。
―――美大進学の準備はそのころから始めたんですか?
そうです。金沢に住んでいるし、美大にいくとなったら当時は近所に金沢美術工芸大学しかなかった。そこで、日本画に進もうと思って、高校2年生から木炭デッサンと、水彩画の教室に通いました。
―――なぜ日本画に?
実は、母方の実家が、京都の西陣の帯を織る機屋(はたや)なんです。おじのひとりはその下絵を描いていて。一度「描いてみる?」と言われて、その時使った岩絵具の感触が心地良くて。それに、学校の美術の授業で使った図録などでも、やはり長谷川等伯とか、菱田春草に目がいく。油絵もやっていたはずなんですが、私は油絵具より、岩絵具を筆に含ませる感じが好きでした。
―――なるほど。美大に行くには、どんな準備が必要なんでしょうか
土日に、木炭デッサンと水彩画の教室に別個に行きます。だいたい1回4時間。「合評」といって、最後に絵を並べて先生が評価するんですが、最初はおっしゃっている意味がわからない。でも、回数を重ねると、下手なのがわかるんです。浪人している人はやっぱりうまい。
―――自分の得意不得意はわかりましたか?
そうですね。当時から、デッサンは好きでした。特に線がつくる面が面白くて。構図を考えるのが大好き。下図を描いているときが至福の時で、今もそれは同じです。
―――それはなんとなく今の作風に通じますね。美大といば狭き門ですが、現役合格なされて、学生生活はどうでしたか?
だいたい、1学年の学生は2〜300人。「純美」と呼ばれる日本画・油絵・彫刻は、それぞれ15〜20人ぐらい。日本画は、作品を床に寝かせて描かないと絵具が垂れてしまうので、人数の割には広い教室でした。油絵はイーゼルに立てかけて描けるから、おそらく少しスペースが狭くなっていたでしょうが、彫刻の人なんかは、クレーンの付いた小屋を与えられたりしていました。それと「デザイン科」に商業デザイン・工業デザイン・工芸デザインがあり、デザイン科の友達ともよく飲んでました。
―――学生でもかなり恵まれた環境を与えられるんですね。金沢には行ったことがないんですが、どんな風景が印象に残っていますか?
金沢は小さな街で、お城跡が浅野川と犀川にはさまれた真ん中にあり、そこが中心部になります。つまり郊外からちょっと出るのも、ちょっと入るのも、川を渡る。橋から見えた、白山を背景にした川や、河原を散歩で見る水辺のネコジャラシという風景は、卒業制作にも描きましたし、今回フジギャラリーさんにお持ちした作品の中にもあります。
≪無題≫ 島田由子 和紙、墨、金箔 530×333mm
―――この線が、すべて何かを抽象しているわけですね。
そうですね、言われてみれば、昔から草や花ももちろんですが、線で構成するモチーフに興味がありました。イカ釣り漁船の帆立がまっすぐ何本も立っている様子とか、鉄柱とか。どういう位置どりでそれらを構成するか、を夢中になって考えていました。
■モダンな「襖絵」で白羽の矢
―――公募展には出品なさいましたか?
地方の学生にとっては、当時は公募展に出展するぐらいしか、作品の発表の機会がありませんので、もちろん出しました。それで審査に残るようなら、そういう人は大学院に行くのですが、私は手応えがなかったし、何がいいのか、何のために絵を描くのか分からなくなって。結局、画壇の世界は諦めて1983年に大学を卒業後は、表参道の小さなデザインの会社に就職しました。
―――デザイン事務所ってよく聞きますが、どんなお仕事をしているんですか?
小さいデザイン事務所の場合、元請けから降りてきたまるごと1社のデザインすべてを引き受けます。私の場合は、バルブメーカー。例えば商品のパッケージと段ボール箱、大きさや縦横比が違うのを全部レイアウトするのです。総合カタログも、世界に輸出用に、英語、フランス語どころか、アラビア語でも作っていました。パソコンがなかったので、カッターナイフと三角定規をピンセットで写植を切る貼るというアナログでの版下作りでした。薄給でしたが、ラフ絵が上手いということで重宝がられました。ですが、デザイン業界に自分の将来像が描けなくて1年半ほどでやめ、老舗の人形劇団「プーク」(渋谷区代々木)の美術スタッフに転職しました。
―――小学校の「芸術鑑賞」で来る人たちですね。
そうです。プークは、新宿を拠点に劇場も持っていますが全国に出張上演しています。美術部では人形劇の舞台の背景を描いたり、小道具をつくったり、人形が壊れたら修理したり。いろいろな素材での物作りは楽しかったですね。しかし、入団3年目くらいに新作の美術を任された時のこと、舞台美術はいくらでもイメージがひろがるのに、肝心の人形のイメージが出てこない。私は、人間と動物、目のある絵が苦手なんだと、だから、ああ、ダメだ、と思って退団しました。
―――打掛は、やはり加賀友禅なんですか?
結婚の話ですか(笑)。挙式は、母手作りのウェディングドレスを着ました。披露宴では、親戚の工房で作った加賀友禅の着物と、母の実家の西陣の帯の振袖を着ましたね。それから千葉県柏市に新居を構え転勤もなく30年、子どもは女の子が1人います。
―――絵の世界に戻ったのは、お子様の関係だとか。
絵本作りのママサークルで知り合いになった方に、「モダンな襖絵をデザインしてくれないか」と言われました。襖の加工をしている会社の奥さんで。子供が小さかったので家で描いて届ける、というスタイルで仕事を始めました。無地襖紙にシルクスクリーンやエアブラシなどで絵柄を加工するという一連の仕事の中の、デザインと版下、それと手描きの作業を担当していました。デザインを描くときに、現場にあるいろいろな襖紙で描いていていたことが、今の作品の基礎になっています。日本画の絵画的要素と、挫折したデザイン事務所での経験を生かすことができた襖絵に出会えたことはとてもラッキーだったと思います。
≪無題≫ 島田由子 和紙、墨、金箔 727×530mm
―――以来、ずっと襖のデザインをされてきたのですね。日本画と襖絵は、ほとんど同じなのですが、あえての違いといえば何でしょうか。
紙の違いと、表具屋さんの技が盛り込まれているところでしょうか。襖はいわば「紙の建具」なので、襖用の紙は書画用紙に比べるととても丈夫ですし、無地紙としての魅力があり、さらに墨を載せてみると思いもよらない表情を出すことがあります。それは紙の職人さんの力です。
―――襖といえば連作も。
襖なので、1枚というのは少なくて2枚、4枚、大広間では8枚などそれはいくらでも。そんな構図を考えるのが大好きです。今もいろいろ手探り中ですが、開閉する襖の「動き」と、住空間の装飾としての「間」を大事にした、余白を生かした制作を続けていきたいと思っています。
襖紙の良さをお借りして、さらにもうひと加工することで、空間が施主さんのイメージに近づくお手伝いができたらと思っています。
■「コミッションワーク可能」という魅力
―――インテリアコーディネーターにとって魅力的なのが、一点ものでありつつ、サイズを大きくしたり小さくしたり、コミッションワークができるところですね。
はい。だいたい注文縮図をお作りし、OKが出たら1.5〜2ヶ月程で、パネルに仕上げることができます。また、カタログのように図案がありますので、「もう少し濃く」とか「薄く」といったご要望も可能です。箔と墨と紙のバランスで、風や光を表現していきたいと思っています。
―――今日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
取材後記────────────────────────
島田さんの大胆な線と箔で表現した世界に、金沢の風景が込められていることを知り「抽象された何か」を垣間見ることができました。すでにフィンランドからの発注もあったとのこと。暗い冬を乗り切る魅力が、島田作品にあるのでしょうか。フジギャラリー新宿では今後も島田作品をご紹介していきます。
(聞き手・原田愛)