堀内肇
平和への願い 「円」に込めて
――画家たちの心象風景を歩く③
フジギャラリー新宿では、インテリアにマッチしたアート作品をご紹介しています。抽象画も多く扱っていますが、お花や動物の絵、風景画ならば何となくわかっても、抽象画は、ただの線だったり、丸だったり、絵具を散らかしただけのように見えたりして、「分かるようで分からない」というのが、正直な感想ではないかと思います。
そこで、完璧な左脳人間・原田が、アートを生み出す人々にインタビューするシリーズを開始します。
今回はグラフィックデザイナーであり、作家としても創作活動を続ける堀内肇さんにお話を伺いました。
堀内肇さんと作品(作品表装 岡田希代子)
————ご出身が広島でいらっしゃるのですね。
広島市南区です。南区は、広島市中心部との間に、比治山、黄金山という小高い山があり、原爆の被害を免れたため、江戸時代からの道が残ります。近くには、当時からマツダの工場などが広がっていました。子供の頃は、とにかく女性が多い環境で育ちました。母方の伯母、従姉妹、伯母のお姑さんも一緒に住んでいました。母が洋裁教室、伯母が編み物教室をしていた関係で、町中のおばちゃんや若い女性が集まってくる、そんな子供時代でした。だから、女心は得意です(笑)。
バンド活動からアートへの足掛かり
————どんなお子さんでしたか?絵はいつごろから?
図工、体育、音楽が得意、というタイプでした。自宅で絵ばかり描いていたので、「絵を習いにいけば?」ということになり、小学校1年生から近所の絵画教室に通い始めました。「なんでも好きなように描いて」と言われて、戦車と車がぶつかる絵を描き「戦車と車がぶつかった」というタイトルを絵に入れたら、「絵にタイトルをいれちゃだめよ」と言われたのがすごく印象に残っています。今思えば、最初から広告ポスターみたいなものを作ったんだなと。その教室には小学校高学年まで通い、木炭デッサンも習いましたが、中学校ではスポーツ系に行き、美術系からは離れていました。高校では、もっぱらバンド活動。井上陽水から入って、Queen、レッドツェッペリンのコピーをしていました。そのバンド仲間に、「実質帰宅部だから入れよ」と言われて入った、美術部の顧問が、ロン毛にRay-Banのサングラスをしている先生で、特に洋楽の話で仲良くなりました。
————では、その先生の影響で美大に?
高3になって、進路相談したところ「美大に行ったらどうだ。どうせなら多摩美大に」と。その先生が多摩美大の油彩出身だったのです。最初は普通に、油絵か日本画か彫刻か、と考えましたが、「純粋美術は食えないから、デザイン科にしろ」と言われて、言われたとおりに。何も知らないから、その先生に教えてもらって、広島YMCAの美大研究所に入りました。
————美大受験としては準備が遅いということはなかったですか?
もう5月か6月に入っていましたので、浪人を覚悟はしていました。それから受験まで、学校が終わったら毎日教室に通って。
————努力の甲斐あり現役合格。広島からの上京は、どうでしたか?
試験対策とかいろいろありますけれど、何も知らずに「多摩美のデザイン科!」とぶれなく勉強したのが良かったようです。上京のときはすごかったですよ。今生の別れみたいに、広島駅のホームに親戚から友達からみんなが来て「バンザーイ」と。
理論と実践、恩師の教え
————美大生というのは、どんな生活ですか?
毎日課題が出て、それをこなすのが大変でした。1〜2年生はデッサンなど、基礎的な勉強をしましたが、だんだん自分のやりたい方向に枝分かれしていく。僕は書体に興味があって、タイポグラフィ(文字デザイン)をやることにしました。それで、4年生のゼミで出会ったのが、田村空谷(くうこく)先生です。
————美大で初めて教えた書家であり、のちに堀内さんは師事なさったんですね。
その、「理論と実践としての書ゼミ」第一期生の13人のうちの1人でした。机が並ぶ小さな教室で、最初に先生がおっしゃったのが「楷書をやるのは国が決めたことだ」と。授業では、毎回中国の象形文字から、現代の「かな」につながる文字の歴史を座学で教えてもらいます。休憩を挟んで、後半ではその文字を書いてみる「実践」。そして、課題には先生の書いた文字をなぞる「臨書」と、その字体を応用した作品をつくる、と決まっていた。
————でも、文字にするとなると、当時はなかった概念とか、その逆もありそうですが。
それも、全部創作のうちです。言葉になってなくてもいいのです。
————・・・難しいですね。
応用の作品課題は、毎回10点ぐらい提出し、いくつか先生が選び、日付を記入する。それは「今後悩むことがあったら、絶対に役に立つから。今という瞬間は今しかない。文字も創造も一期一会なんだ」というお話でした。そんな先生の姿勢が、自分がライフワークにしている、中国の象形文字の時代に、もしアルファベットがあったら・・・という作品群に影響しています。
≪26 のカタチ_def≫ 堀内肇 紙・墨 520×450mm
————大学を出られてからは?
印刷会社のデザイン部に就職しました。それから5年半勤めてフリーになりました。
————ご苦労なさったのでは?
人に勧めるか?と言われると、勧めませんが、苦労したかというとそうでもありませんでした。ほどなく、F1、競馬、ドラマ「古畑任三郎」のビデオのパッケージなど、主にテレビ局の仕事を数多く手掛けるようになりました。アイルトン・セナが1994年、レース中に死去した時は、追悼版のビデオパッケージをつくりました。でも、そうやって仕事が多くなるにつれ、「作家・堀内肇」という部分も持っておきたいと思うようになり、田村先生に今から16年前、師事しました。
≪グラフィカル書_C_01≫ 堀内肇 紙・墨 440×580mm
————こういった作品に込めた思いは、どんなものですか。
それはもう、「平和」です。広島を出る時から、「平和だからアートができる。平和の大切さを東京に伝えに行くんだ」と自負していました。同じアート業界の方でも、僕らより上の年代は、あまりに生々しい惨状を知っているせいで多くを語れなかった。僕らだからできる伝承があると思っています。
日本酒の蓋からヨーヨーまで
————この作品は、何を象徴したものでしょうか?
細胞から惑星まで、すべてのものは「円」にいきつきます。30歳ぐらいのとき、自分は何が好きなのか、好きだったのか、無条件に好きだったものはなにかと列挙していったんです。収集癖があって、アートやる人は収集癖のある人が多いと思いますが、僕の場合は子供の頃、お酒の蓋を集めていました。
————ビール瓶の王冠?
いえ、時代的に日本酒です。広島市内の酒屋を全部自転車で回って、800個ぐらい持っていました。あとは、コカコーラのヨーヨー。ボーリングの球。よくよく考えると、円形(または球形)に、文字が書いてあるのが好きだったんです。誕生日が3月14日で「あ、円周率だ」と、これも縁を感じて。円周率は永遠に続く。それを自分のテーマにしました。永遠に続く平和を大事にしたい。
————インスタレーションもなさっていますね。
はい。ヨーヨーを何百個も集めて、一個一個に人の顔を描くというインスタレーションをやりました。
————なぜそんなことを?
ヨーヨーは、世界中で古くから狩猟やおもちゃとして存在しています。今でも世界のどこかで何年かおきにブームが起きて、流行が世界を廻っています。世の中と同じでウラとオモテがあり、世も回っている。そこで「YO―YO(世―世)Exhibition」として2002年に青山のギャラリーで開催しました。
2000年 "YO―YO(世―世)Exhibition" の様子
9.11の悲劇と、平和を祈る思い
その後、実は2002年に、ニューヨークのトランプタワーの1階で、数千個のヨーヨーを使ったインスタレーションをすることになっていました。ヨーヨーは世界共通のオモチャで、狩猟の道具でもあった。ニューヨークで、誰もが知っているヨーヨーで、世界中の人たちを笑顔にするExhibitionという企画を持ち込みました。2001年7、8月と渡米し、契約がほぼまとまりました。そしたら翌月、「9.11」が起きたんです。
————なんと。まるで真逆の事態ですね。あれから世界は地獄のようでした。
そうです。それで、トランプタワーでの企画は頓挫してしまいました。やはり、平和でないとアートができないのです。
————2017年にフジギャラリー新宿 で開いた個展 「3.14 PROJECT 『en.』」では、作品には円や細胞、和もありました。
今58歳。これまで缶バッジやヨーヨーなど、「円形」のものを追究してきました。書的アートで好んで描くのはHOPEとPEACEのメッセージ。世界中の人々が平和で心を丸くして、アートも楽しめる。そんな日々が永遠に続くようにメッセージを込めて作品をつくり続けます。
インタビュー後記 ————————————
これまでの取材・編集経験上、広島出身の方は、ほぼ例外なく、平和の大切さを発信する責務を自負していらっしゃる、と感じてきました。堀内さんもまた、平和の使者としての責任を背負って生きていらっしゃることがわかり、そしてあの9.11テロ。「現代の戦争」ともいわれるコロナ禍の中でのインタビューは平和とアートの関係性を強く実感することとなりました。
(聞き手・原田愛)