フジギャラリーでは今、契約している作家さんたちにインタビューを続けています。(インタビューをまとめたページはこちら)
これはもともと、画家には、どんな人たちがなるのだろう、という、私の単純な好奇心から始まりました。
世間一般で、勉強ができる子やスポーツができる子は目立ちますし、それが人生に一定の影響を与えます。勉強はその出来具合も細かく学歴に反映されますし、スポーツは体育会系に入っていれば就職で有利です。社会人になってからも、体格を見れば「あ、ラグビー?柔道?」と聞かれるでしょうし、インターハイ出場などの栄誉もあります。元高校球児は草野球をやるときにはピッチャーとして重用されます。ほかのスポーツも、おそらく会話の中で「俺、バスケットやってたんですよ」という自己開示の機会はあろうかと思います。音楽の才能は、勉強・スポーツに比べれば評価されにくいかもしれませんが、カラオケで良い声をしていたり、「高校時代にバンド活動していました」とか「吹奏楽部でした」といった話をしたりすることもあるかもしれません。
しかし絵については、高校時代に美術部で熱心に活動したからといって「全国大会出場!」といった評価はされづらいですし、仮にどこかで賞を取っていたとしても、絵と関係ない人には、全く知らされない情報です。美大・芸大に進学しない限り、履歴書からは窺い知れません。もし仮に出会っていたとしても、その人の画才に気づくことはできません。では、フジギャラリー新宿の契約作家さんたちが、いつ、その決断をしたのか、自分の才能の多寡をどうやって見極めたのか、ぜひ知りたかったのでした。
これまで約10人に取材させていただき、なんとなく、「画家になる前の画家たち」という姿をイメージすることができました。
1) 中学校までは、大抵運動部に所属
「絵を描く」という行為は、実に「体を使って」やる行為です。絵が上手な人は、大抵運動も得意なのですね。これは個人的には意外でした。なんとなく美術部員というとインドア・文系なイメージだったので。
驚くべきは、特に短距離の俊足自慢が多い。「いつもリレーの選手でした」は高い確率で伺う言葉でした。
私は新聞社で高校野球やスポーツ取材をした経験がありますが、スポーツにおける運動能力のいちばん手っ取り早い測り方は「俊足かどうか」です。野球はもちろん、新体操などでも、足が速いかどうか、が、選手を選ぶ基準になるそうです。体をイメージどおりに動かす、という能力は、同じなのかもしれません。
2)おおむね、お習字を経験済み
絵には、ほとんどの場合筆を使います。書道も筆を使います。だから、絵の話を伺う時に、「お習字もやっていたので」という「おことわり」を入れる作家さんがとても多い。
もしかしたら、世間ではお習字経験があるという人が絶対的に多いのかもしれませんが。ただ、「手を思い通りに動かす」こと自体は、子供のころから訓練をすると、ある程度上達すると言えそうです。
3)40歳以上の人は「褒められ経験」が多い
徒競走で「全員に一等賞」という平等教育が広まったのが、いつごろなのか定かではありませんが、新しい概念は常に都会から地方に広がっていきます。ですので、年嵩で地方出身の方ほど、圧倒的に子どもの頃から画才を褒められ続けています。品評会や展覧会に出品して賞を取った経験なども多い。逆に、首都圏出身の若い方ほど、「具体的に褒められた経験はさほどない」そうです。
この点、私は少し残念に思います。
たとえば、ずば抜けて姿が美しいのであれば、それを生かすべく、俳優やモデルの仕事を探すべきだし、声が良ければ歌い手になってみたら、と、そそのかしてあげなくてはいけないと思うのです。絵が上手ならやはりそれも褒めちぎって、場合によってはお節介でも道筋をつけてあげる必要がある。
問題は、そういった数値化できない才能を的確に評価できる美的感覚を持っている大人が減っているのではないか、というのが一つ。もう一つは、本人に才能があることを大々的に伝えると「えこひいき」と言われがちで、さじ加減を少し間違えば「セクハラ」「パワハラ」「モラハラ」と言われかねない空気があり、さらには「言った責任」を問われかねないから、いい加減なことは言いにくいのではないか、ということです。
もしかしたら、絵の展覧会なども多少は手間と予算のかかることなので、不況が影響しているのかもしれませんし、そういった専門的な部分は「公教育よりも家庭教育で」と丸投げされているところもあるのかもしれません。
気づかれない才能がないようにと、祈るばかりです。